ご由緒

ご祭神


●市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)  
  ※市杵島姫命は辨財天様としても信仰されております。
 
●熊野坐大神
 
●吉野坐大神
 
●南朝四代天皇の御霊
 
●神代天之御中主神より百柱の神
 

ご神徳


●水の大神
 
●弁舌・才智の大神
 
●音楽・芸術・芸能の大神
 
●財宝の大神

 辨財天は、川の流れの妙なる様を神格化したとされる、古代インドのサラスヴァティー神であり、その本来の神徳は水の神、そして、水せせらぎの如く素直で妙なる弁舌や音楽の神であり、日本の古代より行われてきた水神の信仰とも結びついています。
 後に転じて「財を弁ずる」商売の神としても信仰されるようになりました。
 

略縁起


 多門院日記に、
 
 「天川開山ハ役行者 -マエ立チノ天女ハ
  高野 大清層都コレヲ作ラシメ給フ」
 
という一節があります。 これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。  
 
 天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは 周知のことです。その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。
 
 その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。
 更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。
 天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。
 
 天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。 まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。
 
 文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。
 また琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。
 

五十鈴


 五十鈴(いすず)は、天河大辨財天に古来より伝わる独自の神器で、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられています。
 
 特に芸能の世界にいあっては天宇受売命にあやかって、殊の外御精進あそばされる方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)は、同床共殿のあり方と精神にてこれを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされますことを切に祈るものであります。
 
 この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ、
 
  ●「いくむすび」
 
  ●「たるむすび」
 
  ●「たまめむすび」
 
という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。
 
 この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてきます。
 特に芸術・芸能の世界で精進される方々(俳優、舞踊、歌手、ラジオ、テレビタレントなど)が、天宇受売命の故事にあやかり、これを奉載され、この三魂(みむすび)の調和統一に意を用いられ、芸能技芸練達の器教とされております。
 
※多くの御崇敬者の方々からのご要望・お問い合わせにお応えいたしまして、現在ご希望の御崇敬者に対して「五十鈴」の授与を行わせて頂いております。詳しくは社務所までお問い合わせください。
 

天河社と能


 天河社には能面・能装束多数が現存します。いづれも桃山文化財の逸品として世に知られ、過日アメリカメトロポリタン美術館で催された「日本桃山美術展」へも、数点が出品され国際的にも人々の人気を集めました。
 
 能面三十一面、能装束三十点外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山、江戸初期にかけ我が国の能楽草創期から成熟期にかけてのものばかりで能楽史上稀有のものとして文化的価値のきわめて高いものです。
 
 そのうちの一、二を紹介しましと能楽の創始者世阿弥も使上したと思われる、「阿古父尉」を始め、江戸初期面打ちの第一人者山崎兵衛が打った猩々面、長谷寺所蔵のものと一対になっているといわれる「三番隻」・「黒色尉」又能装束には文禄三年三月豊太閤が奉納したといわれる絢爛豪華な唐織などがあります。これは、天河社が能楽の発祥の頃より深く関わってきた、芸能の守り本尊であることの証といえましょう。
 
 辨財天を別名「妙音天」と申し上げます。
天河では辨財天拝殿と能舞台を含めて妙音院と申し上げるのはこのためです。これは辨財天が芸能の神様として早くから尊崇されたためです。ずっと昔、悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに田楽が行われていました。特に天河社には辨財天八楽又は弥山八面とも申しまして利生あらたかな楽舞が伝っておりました。
 
 夙に平和の神、芸道の神として知られていた天河社に後南朝初期、観世三代の嫡男十郎元雅が心中に期することを願って能「唐船」を奉納し尉の面を寄進しました。平和の神、芸能の神に寄せる期待が如何に大きかったかをしのばせます。以来天河社では社家座の成立や、喜多六平太による謡曲喜多流の創設など芸能とのかかわりを深め全国各地の祭祀にかかわってきました。
 
 しかし時代の推移と共に盛衰を繰返し、明治の中頃以降は永く廃絶の憂目にさらされていました。しかし、幸いにも戦後昭和二十三年社家有志によって復興を見るに至り以来能楽や狂言の奉納が行われるようになりました。  特に昭和四十五年観世流京都の片山博太郎先生能「弱法師」が奉納されて以来、毎年例大祭には京都観世界を初め幾多諸流の名士が芸能の枠を奉納するようになりました。
 

天河社と南朝


 天河郷は南朝関係史跡や伝承が大へん豊富です。
 
 「あさからぬ ちぎりもしるき 天の川
 はしはもみじの 枝を交わして」 (長慶天皇)
 
 嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされてあります。
 南朝と天河郷の深いかかわりをこれほど明瞭にしるしているものは他にありません。  この他天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。その中には天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河弁財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。